2008年5月28日 朝日新聞朝刊より
完全母乳観察が大事
最近、母乳だけを与えられていた赤ちゃんに、低血糖が原因とみられる脳障害が起きた事例が学会誌などで報告された。母乳の量が足りずに栄養不足や脱水状態になったためとみられている。
免疫機能を高めるなど母乳には多くの利点があり、母乳育児は広く進められている。ただ、赤ちゃんの状況を十分に観察せずに母乳だけに頼ることに、警鐘を鳴らす医師も出てきた。(編集委員 大久保真紀)

低血糖で脳に障害起こる例も
赤ちゃんの血糖値が異常に低下すると、けいれんや無呼吸発作を起こし、ひどい時には脳に障害が残ることが知られている。これまで低血糖を起こしやすいのは、低体重で生まれてきたり、母親が糖尿病だったりした赤ちゃんとされてきた。
しかし、経膣分娩で正常に生まれてきた赤ちゃんで、低血糖によるけいれんや脳障害が起きた事例が複数報告された。いずれも、生まれてから母乳だけを飲ませる完全母乳栄養で育てられた赤ちゃんだった。
日本小児科学会雑誌(06年6月号)に論文が掲載されたのは、山形大学が発表した事例。
論文によると、正常満期産で生まれた約3000グラムの赤ちゃんが、母乳育児を積極的に進める病院で母乳だけを与えられていた。母子同室の環境で、授乳回数は1日目は6回、2日目は13回で、母親からも特に異常の訴えはなかった。
ところが、3日目にけいれんを起こし、同大学病院に転院。MRIで調べると、低血糖に特徴的な、後頭部の脳の異常が認められた。体重は約10%減少していたという。
山形大の早坂清教授(小児科)によると、6カ月以下の乳児では重篤な低血糖になると25~50%に神経学的障害を残すという。「母乳栄養は否定しない。ほとんどの赤ちゃんは問題なく成長する。しかし、母乳分泌が十分でない母親もいるし、消費エネルギーが大きい赤ちゃんもいる。乳児の栄養失調は中枢神経の発達障害をもたらすので、個体差を考慮し、母乳が足りなければ補充するべきだ」と話す。
また、長野県内ではこの2年で2例の完全母乳児の低血糖の症例が報告されている。一例は自宅で正常出産した赤ちゃんが母乳だけを与えられ、3日目にけいれんを起こした。もう一例は、産科施設で生まれた赤ちゃん。母子同室で母乳が与えられていたが、2日目に低体温になり、無呼吸発作があったという。
いずれも低血糖で、点滴などの処置がされたという。体重減少はそれぞれ約13%と約8%だった。MRIで後頭部などに皮質の壊死などが認められ、現在、慢性のてんかんや視覚障害があるという。長野県立こども病院の中村友彦・総合周産期母子医療センター長は「出産直後の母子同室は、母親に赤ちゃんの哺乳状態や体重変化などを注意深く観察するように喚起するとともに、通常分娩でも哺乳量不足で低血糖症になる危険性があることを医療従事者は念頭に置いておく必要がある。哺乳量が少ない子は血糖値を測定すべきだ」と注意を促している。

「カンガルーケア」でも要注意
母乳育児推進のため、最近は出産直後から赤ちゃんを母親に抱かせる「カンガルーケア」も推奨されている。しかし、中村センター長は去年、正常分娩で生まれた赤ちゃんがカンガルーケア中に心肺蘇生を必要としたケースが2例あった、と日本産婦人科医会報で報告した。
出生70分後に全身蒼白や筋緊張の低下などがあったものと、開始約5分後に全身チアノーゼが出たもの。いずれも発見が早く、適切な処置が施され、約2週間入院したが大事には至らなかったという。
カンガルーケアは70年代に南米コロンビアで、生まれた時の体重が少ない赤ちゃんに対する保育器不足のために始まった。その後、発展途上国で広がり、90年代からは日本でも行われるようになった。最近は、母乳育児を進めるのに有用とされ、母子関係を深めるなどとして正常産児にも広く行われている。中村センター長は「正常分娩時に対するカンガルーケアには、科学的な根拠に基づく標準的な方法がない。出生直後は呼吸循環状態が不安定で危機的状況になる可能性が高い時期。実施するなら、母親に赤ちゃんをしっかり見て、何かあればすぐに医療従事者に知らせるように話しておかなくてはならない」としている。

推進活動は90年代から
母乳育児はここ20年ほど広く推進され、生まれて1カ月の時点で赤ちゃんに母乳を飲ませている(粉ミルクとの併用も含む)率は、厚生労働省の乳幼児栄養調査によると、85年の90.9%から05年の94.9%に増えている。一方で、過度な母乳推進で「母乳じゃなきゃダメ」「粉ミルクを与えるのは良くない」というような精神的なプレッシャーを感じる母親も少なくない。
世界で母乳育児が推進されるようになったのは70年代。発展途上国で不衛生な水で溶いた粉ミルクを与えられ、赤ちゃんが感染症によって死亡するという事態を防ごうとして始まった。89年には世界保健機関(WHO)と国連児童基金(ユニセフ)が「母乳育児を成功させるための10カ条」を共同で発表。91年からは10カ条を実践する産科施設を「赤ちゃんにやさしい病院」(BFH)に認定し始めた(07年、国内では48施設)。
日本では92年、「母乳を進めるための産科医と小児科医の集い」が開かれ、その後「日本母乳の会」に発展。同会はBFH認定審査を委託されるなど母乳育児推進の中心的役割を担ってきた。一方、厚労省も母乳育児を推奨してきた。
最近は、10カ条の中の「母親が分娩後30分以内に母乳を飲ませられるように援助すること」「医学的な必要がない限り、母乳以外のもの、水分、糖水、人工乳を与えないこと」を徹底させている施設も少なくない。
乳幼児栄養調査によると、母乳だけを与える生後1か月の母乳栄養率は85年の49.5%から05年は42.4%に減ったが、粉ミルクだけを与えている人工栄養率も9.1%から5.1%に減少している。